読んでいないけれど、『読んでいない本について堂々と語る方法』を堂々と語ってみる
先日、Engineering Manager Meetupのオフ会の一貫で、@aomoriringoさん、@ohbaryeさん*1、ujihisaさん、つよぽそさんと食事をした。このとき、一冊の本が話題になった。 それが、『読んでいない本について堂々と語る方法』である。

- 作者: ピエールバイヤール,Pierre Bayard,大浦康介
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/10/06
- メディア: 文庫
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これが名著であるということで、その場で即買いした。 このエントリではこの本について語る。
本題に行く前に最初に宣言しておこう。 タイトルにある通り、私はこの本を読んでいない。 読んでいない本を語るとは何事だ、けしからん、と思う方は、是非ここでお帰り願いたい。
本の構成
大きくは三部構成になっている。
第I部は、読んでいない状態を段階に分けて考察する。読んでいない段階とは、全く読んだことが無い、流し読みをした、人から聞いたことがある、忘れてしまった、などである。
第II部は、読んでいない本を語る場面の分析をする。ここでは、大勢の人の前、教師の前、作家の前、親しい人の前を取り上げている。
第III部は、読んでいない本に対してどう向き合うのか考察する。中々のパワーワードが入っていて、気後れしない、自分の考えを押しつける、本をでっち上げる、自分自身について語る、などと言っている。
"読んでいない"には段階がある
本を一口に読んでいない、と言っても、いくつか段階がある。そして、我々はどの段階においても、他人に堂々と語ることは可能である。
本を開いていない状態
本屋で本のタイトルだけ見た、Amazonのおすすめに出てきたなどがこれに当たる。では、タイトルだけ見た状態は、本を語れないのだろうか。本の中身については流石に語れないかもしれないが、本のタイトルが本のエッセンスとなっている場合、我々は想像を膨らまし、本を語れるケースがある。
例えば、この本はどうだろうか。

- 作者: 箕輪厚介
- 出版社/メーカー: マガジンハウス
- 発売日: 2018/08/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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死ななければどんな失敗も大したことがない、だからたくさん挑戦して失敗しよう、ということがこの本には書いてある、と語ることは出来るのではないか*2。
流し読みをした状態
目次を読み、重要そうなところをパラパラっと見る、そんな状態だ。本を全て読んだわけではないが、そのパラパラっと見た部分について我々は語った経験は無いだろうか。例えば、雑誌の特集にこんなことが書いてあった、と語った経験は誰しもがあると思う。 例え全部読んでいなくても、確かにそこについて自分が思うことを発信することは可能である。
人から聞いた状態
誰かにおすすめしてもらって、サマリーを聞いた状態だ。私もこの本を紹介してもらったときは、サマリーを聞いてその本を読んだ気になった。
私はここである実験をしてみた。 この本の内容を全く知らない人に対して、私の理解した通りに聞いたサマリーを説明してみたのだ。 結果は、いたく感心された。
この背景には、全く知らない立場からすると、その本に何が書いてあるか知る由も無いし、例え本の趣旨と多少ずれていても、読み手によって印象が変わるということが暗黙的に理解されているためだ*3。
読んだことがあるけれど忘れてしまった状態
人は、本を読んだ瞬間から忘れていくのだ。だから、我々は読んでいない状態から逃れられない。 私自身、このブログを書いている身でありながら、既に書いた文章の内容を正確には覚えていない。
我々が本について語っているときは、多かれ少なかれ忘れた状態であり、置かれている状況に応じて改変され続けていくのだ。
私は読んでいないのか?
既に示した通り、我々はどのような状態の本に対しても、読んでいないと言える。 ここまで読んだ方*4は、私がこのエントリのタイトルにつけた"読んでいない"という言葉が、一般的に言われる意味とは異なることを理解したはずだ。
種明かしをすると、私はこの本の重要そうなところを流し読みした。 この流し読みを読んだと捉えるのか、読んでいないと捉えるのか。 読み飛ばしたところを最高に面白いと思っている人からして、私の読み方は読んだと言えるのだろうか。 この本を一語一句漏らさず読んだけれど、他の人に語れない人を読んだと言えるのだろうか。
つまり、「読んだ」「読んでいない」を、コンテキスト無しに二元論で語るのはそもそも誤っている。 この本の言葉を借りるなら、
われわれはたいていの場合、「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる
- p.64 3行目
である。
本の会話をしているときに、「斜め読みなんですけれど」とか「最初の方しか読めていないんですけれど」といった、 文章を一語一句読んでいない罪悪感のようなものを感じながら話した経験はこれまでに無いだろうか。 あるいは全部読んでいないから語らない、みたいな経験は無いだろうか。 だから、私は罪悪感を感じなくても本を堂々と語れることを示すために、あえてこの本を「一語一句漏らさず読まない」ことを宣言してエントリを書いたのだ*5。 この本の中には、
このように、読んでいない本について気後れすることなしに話したければ、欠陥なき教養という重苦しいイメージから自分を解放するべきである
- p.200 6行目
ということが書かれている。 もしかしたら潜在的に、本を勝手に崇高な対象にしてしまっていて、完璧に読んで理解することを自他に強要してしまっているのかもしれない。
読んでいないは、知らないではない
本は巨人の肩に乗る手段そのものだ。 どんな状態であれ、一冊でも多く読んでいない本にすることが大事だ。 知らない本に対して語ることは出来ない。語ることが出来ないということは自分の血肉になっていないという状態だ。 だから、知らない本を貪欲に探し求める行為が必要なんだ、と改めて認識した。